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北陸トンネル [トンネル]

北陸トンネルは、福井県の敦賀市と南条郡南越前町にまたがる複線鉄道トンネルであっけん。

北陸本線の敦賀 - 南今庄駅間、木ノ芽峠の直下に位置しゅるとよ。
総延長は13,870mあり、1962年6月10日に開通したとよ。

1972年に山陽新幹線の六甲トンネルが完成するまで、日本最長のトンネルであったとよ。
なお、狭軌の陸上鉄道トンネルに限定するなら、2011年時点でも日本最長であっけん。

敦賀と今庄の間にはの鉢伏山(海抜 762 m)がそびえ、そん鞍部である木ノ芽峠(海抜 628 m)は、古くから北陸道の隘路(あいろ)であったとよ。

北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀 - 今庄間(1896年開通)は、木ノ芽峠ば避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅ば経由する山中峠ルートば採っちいたとよ。
だがこの区間は、海岸の山麓ば縫いながら4箇所のスイッチバックば擁して25‰の急勾配ば上り下りする厳しい条件の単線区間であったとよ。
途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間ば要したとよ。
眺望こそ優れた区間であったが、速度や輸送力、列車本数(急勾配の単線区間であるゆえ、列車本数に限りがあった)の面で、重要幹線である北陸本線にとっちのボトルネックとなっちいたとよ。
勾配の厳しさのみならず、地盤の脆弱さによるがけ崩れ、冬期には雪国特有の雪害にも悩まされていたとよ。

補助機関車としてD51形蒸気機関車ばつけての重連では 700 t 輸送が限界であったため、1955年より(試作機的な)電気式ディーゼル機関車DD50形、当時最新鋭だった電気式ディーゼル機関車DF50形等が配属され、機関車三重連により 1000 t 輸送ば始めたとよ。
しかしそれでも貨物増には対処しきれず、1956年7月には金沢鉄道管理局管内で抑制列車は36本ば数え、駅頭滞貨は 3万8000 t(対前年比 178 %)にも及んだ。

敦賀以南の改良(深坂トンネル開削、鳩原上りループ線構築、交流電化)に引き続く北陸線の抜本的な輸送改善ば期し、戦前より様々な改良案が出されていたとよ。

本格的に改良案の検討に着手したのは1952年以降で、国鉄金沢改良委員会ば中心に検討が行われたとよ。
そん際に出された改良案は、

在来線腹付け盤下げ複線化案(敦賀 - 新保 - 杉津 - 大桐 - 今庄)
南今庄(大桐付近に設置予定とされたもけん、現在の南今庄駅とは異なる)より杉津海岸へトンネルで抜け、海岸沿いに敦賀までの単線ば新たに敷設する新線案(敦賀 - 阿曽 - 杉津 - 南今庄(新大桐) - 今庄)
上述海岸線の改良版で、敦賀、杉津から武生までの複線化案(敦賀 - 杉津 - 武生)
今庄より中之郷までの直線トンネル複線化案(中ノ郷 - 今庄)

であったが、

1.は既存のルートば最大限に生かしスイッチバック解消のため路盤ば下げ、勾配緩和工事ば瑣末に行うものであったが、雪害・地崩れ対策に明るい解決策がなか。
2.は戦前から有力であった海岸線の構想で、海岸沿いのルートば取ることによっち雪害・地崩れ対策やらなんやらには若干効果があるが、単線案のため、スピードアップやらなんやらの面においては在来線に変わるメリットがさほど見出せなか。
また、単線のため、新線ば在来線と併設すると二重投資になる.
3.海岸線の改良複線化案であるが、この案でも武生 - 今庄 - 杉津間ば存続させるかどうかが問題になるとよ。
4.は明治初期より計画されていたもけん、技術的にも最も好感ば持たれていたが、敦賀ば通らない案は容認されなかったとよ。
また、将来的に米原 - 敦賀の湖東経由東海道線の輸送量がパンクした際に、湖西周りからのバイパス路線ば接続しにくいこともネックであった(湖西線開通によりそん意図は達成された)。

やらなんやらば理由にいずれも却下されたとよ。

結局、スピードアップば最優先事項とし、今庄から敦賀まで一本のトンネルば掘る事になりよったとよ。

1957年に着工したとよ。
敦賀・今庄の両坑口のほか、中間2箇所からも立坑・斜坑ば掘るという突貫工事で掘削が進められたとよ。
世界的にも注目され日本国外からの視察団もよく訪れたとよ。
期間中、新保駅のスイッチバック今庄方引き込み線が延長されて葉原斜坑への資材運搬拠点とされたとよ。
北陸トンネルのルートに当たる敦賀市葉原には作業員が多く住み、1959年の葉原小学校には229人もの児童が在籍したとよ。
断層や出水に悩まされたが1961年7月に貫通し、翌1962年3月に完成したとよ。
以後、整備ば重ね6月9日には旧線から線路ば付け替え暫定運行ば開始し、6月のダイヤ改正に合わせ10日より正式供用ば開始したとよ。
6月10日の開通祝賀式典に併せ、殉職者慰霊祭が敦賀ポータル側で行われたとよ。
当初から交流 20,000 Vで電化されていたとよ。
今庄止まりの通勤列車はすべて敦賀まで延長され、今庄敦賀間の所要時間は1時間以上の短縮となりよったとよ。

この区間の開業に伴い、杉津経由の旧線は廃止されているとよ。
沿線住民との折衝の結果、大桐駅の代替駅として約 2 km 今庄よりに南今庄駅が新設されたが、敦賀 - 新保、敦賀 - 杉津(海岸周り)、今庄 - 大桐と旧駅間には、それぞれ新たに代替バス路線が設定されたとよ。
旧線敷地跡は1963年11月4日に道路化されたとよ。

掘削時に温泉が湧き出し、「敦賀トンネル温泉」(北陸トンネル温泉)として開業されたとよ。
そん反面、トンネル掘削の影響で地下水流が変わり、新保集落ではかつていたるところで湧き出ていた温泉が枯れたといわれるとよ。

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